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高志の国・福井のとある牛飼いの日誌.内容は酪農のことだけでなく日々の徒然なる日常を書いています


by s-t-day
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舟橋

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 福井市の中心を南北に走るフェニックス通りが、九頭竜川とぶつかるところは、かつて柴田勝家が、越前浦々から48艘の舟を集め、刀狩の鉄で作った鎖で繋いだ「舟橋」が架けられていたところ。
 この通りは旧北陸道のルートとも一致していて、舟橋や対岸の稲多には、盛り場や宿場町が形成されていた。
 川を挟んで街道の要所ということで、渡河点となっていたことから合戦場として史書に出てくるケースが多く、12世紀半ばの源平時代、木曾義仲が北陸路から京へ攻めこむ時、この辺りが戦場となったり、14世紀南北朝時代には、足羽七城のひとつ勝虎城が現在の舟橋南詰下河川敷あたりにあったとされ、それをめぐる攻防が太平記にでてきたり、朝倉氏の時代には、加賀一向衆と朝倉が河をはさんで激戦を繰り広げたこともあった(永正三年の九頭竜川大会戦)
 信長の越前平定後、柴田勝家の支配となって、舟橋が架けられるようになると、ここには、橋奉行が置かれた。柴田時代は福岡七左衛門等が、江戸時代となると四天王家が世襲しており、今もその記念碑が舟橋跡の碑の横に建っている。
 江戸期の福井藩主松平氏も舟橋の制度を受け継ぎ、この頃の記録には、舟48艘、橋の長さ120間、鎖520尋、毎年修理を加えているとある。出水の時は舟橋を撤収する決まりとなっていたが、舟を流することもしばしばあった。
舟橋の地はこのように、街道の宿場町として舟橋とはきってもきれない関係で発展してきたが、明治8年に現在の場所に架橋され、舟橋もその時廃止されている 橋をゆきかう車をながめていると、今ではなにげない街の風景になってしまった舟橋の歴史の重みと、うつりゆく時の流れの早さを身にしみて感じる牧場長でした。
by s-t-day | 2009-01-24 22:00